平均的な日本人の脚の数は?
とある本 (多分森巣博の本だった) の冒頭に書かれていた一文に「日本人の脚の数の平均は何本か?」という問いがある。
少し考えてみれば、「2本未満」というのが正解だということに気がつくだろう。脚の3本ある人というのはそれだけでニュースになるほど希少で (というか、日本にそんな人いるのか?)、殆どの日本人は2本の脚を持っている。しかし人によっては生まれつき足のない人もいる。五体不満足という本が数年前に話題になったが、全人口の 0.01% ぐらいはそのような障害を持っているのではないか (ここでは割合が 0.01% だろうが、0.001% だろうが話の本質にはあまり関係ない)。従って「2本未満」という答えが出てくる。
しかし「日本人だったら..」とか言う人 (日本人) がウィーンにもいる。こういう台詞を聴くと私の中で警告が灯る。「日本人ならこの光景を見て残念に感じずにはいられないだろう」とか「日本人なら分かってくれるよね」とかいう台詞だ。それでは「残念に感じない人」は日本人ではないのだろうか? 言っている事を分からない人は日本人ではないと言う事だろうか?
私の定義する「日本人」とは、日本国の国籍を持っていることだ。私はまだ日本国籍をもっているので、「日本人」だと自分自身を定義しているが、もし (紆余曲折があって) 米国やオーストリアに帰化することになれば、「日本人」ではなく「米国人」や「オーストリア人」になるということになる。そう、「〜人」というのは、(大変だけれど) 変更可能で動的なものなのだ。
想像するに、上で述べた「日本人だったら..」という人は、自分の中で日本人像を持っているのだろう。しかしその日本人像に合致しない日本国籍を持った人が現れた際に、その人はどのようなリアクションを取るのだろうか? 私が今まで経験した中で最も多かったのが「拒絶」だった。まぁ、それが一番楽な方法だと思う。
そもそもそういう人はどこまでが日本人であると考えているのだろうか? 日本に住んでいれば日本人なのだろうか (ということは、留学生も日本人)? 茶道をやっていれば日本人なのだろうか (ということは、そうでない人は..)? 新渡戸稲造の「武士道」を読んだ人が日本人なのだろうか (以下略)? そもそもそのような定義付けは客観性を持ったものとは言えないだろう。従って、そこから出発する「日本人だったら..」という前提も、「そもそも日本人とは何か」というコンセンサスを取るのが難しくなる (その場にいる全員が同じ感情を共有していれば良いのだろうが、必ずしもそうとは限らない)。
「日本人の平均的な脚の数は2本です」と言って (つまり「日本人像」なるものを自身の中にもって) 行動したい人はそうすれば良いのだろう。それはその人の自由だ。上で書いた「警告が灯る」というのは、こういう人と話をしていると無駄に時間を過ごす事になりそうだという警告である。自分でそう思うのは勝手なのだが、上に書いた様に実際に発言して、議論を始める。「それではそもそも日本人の定義とは?」という問いを発すると、その話を突き詰めるだけで結構な時間がかかってしまう。
私が問題だと感じるのは、上の様な人たちが、殆ど無意識に「日本人なら..」という発言をしている様に思えることだ。発言するのもその人の自由だが、最近はこういう台詞を聴いただけでテーブルから立ち上がりたくなる。
