2011 年 10 月 7 日 | カテゴリー: ひとりごと, 生活

ヨーロッパに初めて来たのは 今から10年近く前のことになるのだが、実際に一定期間 (例えば半年) を超えてそこに住み続けると、普段着る服装について考えなければならない。

私自身があまり服を頻繁に買う人間ではない (というか、そもそも興味がそこまでない) というのが主な原因なのだろう。最初にヨーロッパで服らしい服を買ったのは、大学院時代にドイツにいた時だった。想像してはいたのだが、実際に試着してみると明らかに私の丈に合わないということが分かる。簡単に言うと、私のウエストサイズにあったズボンが無いのだ。ドイツ語の教科書などに「そういう時は子供服のコーナーを覗いてみましょう」ということが書かれていたような記憶があるのだが、不幸なことに私のサイズにあうものも、子供服売り場には通常置いて無いことが多い。

上のような理由で、私が着る服は日本に行った時に購入するようにしている (とはいうものの、そういう機会もそう頻繁には無いのだけれど)。あまり服にこだわる人間でも無いし、Tシャツはだいたいのサイズがあっていれば良いので、そこまで苦労した記憶はまだ無い。

街を歩いているとスーツや、その下に着るシャツを売っている店を見つける。好奇心で入ってみると、店員に首のサイズを計られる。83cm だそうだが、この首の太さは私の身体にしては大きなものらしく、お店にある服 (または市場にある商品) に、適合するサイズは無いと言われる (首のサイズをベースに服を買うと、袖などの丈がどうしても大きくなってしまうらしい)。

代替案として、店員から「オーダーメイド」という選択肢があることを告げられる。どうやらウィーンではオーダーメイドで服を作っている人が何人かいるようで、そのうち1人の連絡先を受け取る。どうやら一度私の身体のサイズを測り、それから先は必要に応じて服のオーダーをするらしい。大体 85 ユーロあたりからの金額になるらしい。正直言って私にはこの金額が高いかどうかの区別がつかない。経験という意味で、一度やってみても良いかもしれない。

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2011 年 9 月 29 日 | カテゴリー: 生活

最近は MBA の課題ばかりやっていて、更に仕事以外のイベントが立て続けに入った関係で、何か普段とは違うことをしたいと思いながらも、何も始められない状態だった。いつものように RSS を読み進めていると、USB ケーブル経由で使用することのできる MIDI キーボードというのを見つけた。

せっかく Mac OS X を使用しているのだから、機会がある時に Garagebnad を使用したいとは考えていたが、それとは別に楽器も始めたいと考えてた (私は幼年期にピアノを習わされていたのだが、楽譜を読むことができると色々良いことが起こるということをここ10年ぐらいで学んだ)。

本来ならば、MBA が修了した後に楽器を購入するべきなのだろうが、やっぱり購入して好きな時に練習したいという欲求はある。このまま悩み続けるよりも、さっさと購入して、機会がある時にいつでも練習できるようにしておいた方が良いだろうと、最終的には判断した。

注文してしばらくするとキーボードが届いたのだが、今のところ満足している。予想していた通り、まだ練習をするために満足な時間は確保できていない。しかしテーブルの上にはあるので、機会がある時に弾き始めることになるのだろう。

楽器としてのキーボードとは別に、コンピューターに接続してタイプするキーボードも購入した。以前から考えていた Apple の無線キーボードなのだが、Bluetooth をペアリングして使うかたちになる。当初の目的は、職場のパソコンに繋げて使用するというものだったのだが、考えてみたら iPhone や iPad へ接続するかたちでも使用することができる。これで職場への通勤などでも文章を入力することができるようになるだろう (実際このエントリーはレストランでランチが届くまでの隙間時間で書いている)。

実はこれらキーボードの他にも、おもちゃと呼べるようなものを注文していたリスる。今から届くのが楽しみだ。

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2011 年 7 月 21 日 | カテゴリー: 生活

数週間前になるが、妹から「最近掃除を張り切ってし始めたら、とても気分が良かった」という話を聞く。私はこれまで週に1度程度部屋やキッチンの掃除をしていたのだが、もう少し張り切る余地があるのではないかと考える様になっていた。

日本にいたときにはクイックルワイパーが大活躍していたのだが、ここオーストリア (もしかしてヨーロッパ) では、クイックルワイパーはおろか、それに似た様なものもこれまで見つける事ができなかった。必然的に掃除はほうきとちり取りで行うことになり、何度かルンバの様な掃除機を買っても良いのではないかと考えたこともある (しかし新たに掃除機を買う事によって、私の生活が更に複雑になるのは嫌だ..)。

そんな事を考えながらスーパーを歩いていたら、Swiffer という名前のブランドを見つけた。よくよく見てみると、日本のクイックルワイパーと同じ様なコンセプトらしい。これなら毎朝サラっと床を拭いて、2日に1回ぐらいの頻度で交換すれば良いということになる。実際にそうしてみると、少しだけ部屋の中のホコリが少なくなった気がした (前からそこまで気になるレベルでは無かったのだが..)。

しかし一旦掃除をやり始めると、色々と手を広げてみたくなる。最初はフロアリングだけだったのが、いつの間にか「キッチンも (もっと) 定期的に掃除 (油汚れを取る) しよう」とか、「バスルームも1週間に1度ぐらいの割合で掃除するようにしよう」とか考える様になる。ホコリの温床となっているようなカーペットは捨てた (機能的に重要だとは思えなかったし、インテリアとしてもそこまですぐれていなかった)。ソファーには (意外と) 髪の毛などが落ちていたりするので、粘着テープのコロコロ (正式名称は知らない) を買って、定期的に粘着テープを転がす様にしている。

そうすると、普段の生活も少し変わってきた。関連性があるか分からないのだが、冷蔵庫に何が入っているのかを以前より把握するようになったし、その結果同じものを購入したり、日が経ちすぎて腐らせてしまうというようなことが無くなった (少なくとも減った)。これは「自分の生活を以前よりコントロールしている」と言う事ができる様に思える。

# ちなみに冷蔵庫の霜取りもやってみたのだが、次の日にはもう霜ができていたのに閉口してしまった。今度は計画的な買い物 (つまり、常温でも問題ないものだけ) をして、自然乾燥で霜取りをしてみたいと思う (その場合、「霜取り」という言葉が適当かどうかも不明だが)。

今のところ残っている主な清掃対象は本棚だろう。あまり本の出し入れをする事がないため、奥にはそれなりにホコリが溜まっていると思われる。しかし全て取り出して棚を拭くとなると1日がかりの作業になるだろう。どうせやるのであれば、いらなくなった (つまりデジタル化する) 本を決定した後にこの作業を行うべきだろう。掃除をする事がストレス解消にもなっている様な気がする。テーブルの上には現在課題に関する資料が多く載っているのだが、これも時間が来れば片付けられるだろう。

それから毎日拭き掃除をしているうちに、移動式の靴箱が欲しくなった。そこまで複雑な構造は必要ないので、DIY ショップなどに行って材料を購入し、自分で作ってしまった方が良いかも知れない。

掃除用具や消耗品を購入するため、当然新たな出費が発生するのだが、購入に躊躇を覚える事は無い。自分でもお金を有効に使っていると感じられる。

# 逆にそれまで使っていた箒をどうしようか考えてしまう。ここ数週間全く使っていないので (そしてこれからも使う事は無いだろうと思われるので) 捨ててしまった方が良いかも知れない。

結論を言うと、もっと早く掃除の楽しみを意識して、クイックルワイパーを探そうと努力しても良かったかも知れない。今では自分の部屋を掃除するのが新しい趣味となってしまっている様に思える。

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MBA

2011 年 5 月 31 日 | カテゴリー: ひとりごと, 生活

早いもので、オーストリアで仕事を見つけて、ウィーンに引っ越してきてからもう1年半以上になる。私は未だに自分の仕事が好きだし、ウィーンという街も住みやすい場所だと考えている。仕事は楽しいのだが、毎週金曜日の午後になると、「今週末は何をしようか」という質問を自分に問うことになる。

少し変な話かもしれないが、精神的に一番負担になるのが金曜日の午後だった。月曜日の朝は「これから仕事をする」ことが決まっているので、特に考える事もなくやるべきこと (つまり仕事) を行えば良いのだが、週末のような自分の時間を何に使うかは、常に考えなければいけない。

当初は読書をしたり、美術館などへ行ったりした。友人と夕食をしたり、パーティーへ行ったり、ボルダリングやダンスなども始めてみた。それはそれで面白いのだが、もっと良い時間の使い方は無いものだろうかと頭のどこかでは常に考えていた様に思える。

そんな時に、私が日本を離れる直前に、友人が言っていたことを思い出した。「オーストリアに行ったらドクターか MBA コースに行くというのもアリだね」という何気ない一言だと思うのだが、もしそれが可能であるのなら大学で学び直すというのも悪い話では無いように思えた。ドクターコースについても調べてみたのだが、働きながら行けるコースというのを見つける事はできなかった (私の場合だと、これから Computer Science のフィールドへ行くというのも難しいと思うし..)。MBA はパートタイムのプログラムの方がむしろ多いらしいのだが、ウィーンで通える MBA プログラムというと、コースの内容の殆どがドイツ語で行われていたり (驚くべき事に、中の人に「何故英語で講義を提供しないのか」と訊いたところ、「学生が嫌がるから」という答えが返っていた)、大学そのものがウィーンの外にあり、通うのが (少なくとも私にとっては) 著しく難しいというものもあった。そんな中でも (そこまで安くは無い) 授業料を払って、時間 (大体毎週12〜14時間ほど勉強することが期待されている) をかけても良いと思えるプログラムを見つける事はできた。

MBA への入学は問題なく行う事ができ、実際に (公式に) 学生として登録されてからそろそろ1か月になる。最初はお決まりの自己紹介などで終わったのだが、徐々に内容も MBA らしいものに変わってきているように思える (MBA らしいものとは何か、と問われても答えに窮するのだけれど)。どちらにしても、MBA に入る前の、「気に入った本から無差別に読んでいく」という生活よりは、効率的に時間を使っているように感じる事ができる。

本などを読みながら理論を理解する以外にも、自分で何らかの行動を起こしてみるというのも、このプログラムの中には含まれている。狙いは理論として理解した事を、実践してみようというもので、学生の能動的な活動が求められている (と、少なくとも私は理解している)。このようなものが大学のプログラムに組み込まれているというのは結構珍しいように思えるし、未だ勝手が分からない状態でもある (最終的にはどうにかなるだろうという楽観もどこかにあるのだけれど)。

少なくとも MBA を始めた事で生活は変わった様に見える。これから数年間は学生であり続けると思うのだが、どんなことを学習し、どのような活動をするのか、自分でも楽しみである

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2011 年 4 月 3 日 | カテゴリー: ひとりごと

とある本 (多分森巣博の本だった) の冒頭に書かれていた一文に「日本人の脚の数の平均は何本か?」という問いがある。

少し考えてみれば、「2本未満」というのが正解だということに気がつくだろう。脚の3本ある人というのはそれだけでニュースになるほど希少で (というか、日本にそんな人いるのか?)、殆どの日本人は2本の脚を持っている。しかし人によっては生まれつき足のない人もいる。五体不満足という本が数年前に話題になったが、全人口の 0.01% ぐらいはそのような障害を持っているのではないか (ここでは割合が 0.01% だろうが、0.001% だろうが話の本質にはあまり関係ない)。従って「2本未満」という答えが出てくる。

しかし「日本人だったら..」とか言う人 (日本人) がウィーンにもいる。こういう台詞を聴くと私の中で警告が灯る。「日本人ならこの光景を見て残念に感じずにはいられないだろう」とか「日本人なら分かってくれるよね」とかいう台詞だ。それでは「残念に感じない人」は日本人ではないのだろうか? 言っている事を分からない人は日本人ではないと言う事だろうか?

私の定義する「日本人」とは、日本国の国籍を持っていることだ。私はまだ日本国籍をもっているので、「日本人」だと自分自身を定義しているが、もし (紆余曲折があって) 米国やオーストリアに帰化することになれば、「日本人」ではなく「米国人」や「オーストリア人」になるということになる。そう、「〜人」というのは、(大変だけれど) 変更可能で動的なものなのだ。

想像するに、上で述べた「日本人だったら..」という人は、自分の中で日本人像を持っているのだろう。しかしその日本人像に合致しない日本国籍を持った人が現れた際に、その人はどのようなリアクションを取るのだろうか? 私が今まで経験した中で最も多かったのが「拒絶」だった。まぁ、それが一番楽な方法だと思う。

そもそもそういう人はどこまでが日本人であると考えているのだろうか? 日本に住んでいれば日本人なのだろうか (ということは、留学生も日本人)? 茶道をやっていれば日本人なのだろうか (ということは、そうでない人は..)? 新渡戸稲造の「武士道」を読んだ人が日本人なのだろうか (以下略)? そもそもそのような定義付けは客観性を持ったものとは言えないだろう。従って、そこから出発する「日本人だったら..」という前提も、「そもそも日本人とは何か」というコンセンサスを取るのが難しくなる (その場にいる全員が同じ感情を共有していれば良いのだろうが、必ずしもそうとは限らない)。

「日本人の平均的な脚の数は2本です」と言って (つまり「日本人像」なるものを自身の中にもって) 行動したい人はそうすれば良いのだろう。それはその人の自由だ。上で書いた「警告が灯る」というのは、こういう人と話をしていると無駄に時間を過ごす事になりそうだという警告である。自分でそう思うのは勝手なのだが、上に書いた様に実際に発言して、議論を始める。「それではそもそも日本人の定義とは?」という問いを発すると、その話を突き詰めるだけで結構な時間がかかってしまう。

私が問題だと感じるのは、上の様な人たちが、殆ど無意識に「日本人なら..」という発言をしている様に思えることだ。発言するのもその人の自由だが、最近はこういう台詞を聴いただけでテーブルから立ち上がりたくなる。

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2011 年 3 月 5 日 | カテゴリー: 生活

少し前に、Financial Times から出ている iPad アプリについての記事を書いた。ここで書かれた記事 (のタイトルと URL) は RSS 経由で私の Twitter TL に流れるのだが、どうやら Financial Times の中にいる人がその tweet を見つけたらしい。

それだけで話は終わらずに、先方から「iPad のケースを送りたいんだけれど、送り先のアドレスを教えてほしい」と言われる。その人の Twitter アカウントの過去ログ (過去 tweet と言うべきだろうか?) を見てみたのだが、どうやら本当に FT の中にいる人らしい。別に私の住所が知られたところで大した事にはならないだろうと考え、住所を教えてみる。

数週間は何事も起きなかったのだが、UK アドレスから私のポストにそれらしい封筒が届く。確かに FT から送られて来たものらしく、FT のロゴが入ったケースが中には納められていた。私自身は既に iPad のケースを持っているので (そしてそのケースの使い勝手にも満足しているので)、通常この FT ケースを使う機会はあまり無い様に思えるのだが、例えば「俺って Financial Times 普通に読んでるんだぜ〜」という感じで他の人に自慢したい時にはこのケースを一時的に使うかも知れない (そんな機会が将来訪れるのかはかなり疑問だけれど)。

ちなみに FT の購読をし始めて1か月以上経ってもまだニュースを読む事はできている。通勤時に iPad を広げて朝のうちにダウンロードしておいた記事を読むというのはちょっとした習慣になっている。最近はそれと FT から提供されている RSS を組み合わせていたりする。ちなみに先週末数年ぶりに紙の新聞紙を (興味本位で) 買ったのだが、第一印象は「重たい」というものだった。お金の問題はあるけれど、「もう少し安い値段で紙媒体の FT 新聞が読めますよ」と言われても、私はオンライン形式での FT 購読を望むだろう。

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2011 年 2 月 15 日 | カテゴリー: 生活

先週友人が運転する車に乗って買い物に出かけてきた。買い物そのものは特に問題なく終わったのだが、その帰り道で友人の車に乗りながら、今まで (半径距離で言えばそこまで距離は無いにも関わらず) 見た事の無い景色を色々見る事ができた。

私がその風景を見た事が無かった理由は単純で、私の移動は殆ど地下鉄かトラムにより行われるため。それ以外の移動は殆ど全て徒歩なので、自ずと行動範囲も決まってくることになる (なので、知らない場所に行く時には、最寄りの地下鉄駅から調べることになる)。

確かに街中を (地下鉄などを併用して) 歩くというのは悪くは無い。しかし街から少し離れた場所を見ようとすると、個人的な足が必要になる様に思える。

私の場合、(オーストリアの運転免許は持っているものの) 入手した車を数か月で壊してしまったという前科もあるし、そもそも車の様に「人生を必要以上に複雑にするもの」を持ちたくは無い (なので車で旅行するとなると、恐らくレンタカーを借りることになるだろう)。ならば小さなオートバイはどうかと考え、Honda のモンキーをすぐに思い浮かべた。小さいし、遠出するのではなく「ちょっとその辺を..」というような場面で使い勝手が良さそうだと勝手に考えた (それに部屋にそのままバイクを持ち込めるのも良さそうな感じが個人的にした)。

バイク好きの同僚に話をして、モンキーの外観を見せた瞬間に、「止めとけ」と言われる。どうやら 50cc のバイクだと、そこまでスピードが出せない関係で危険らしい。125cc 以上のバイクを薦められた。確かにこちらは車の性能限界までスピードを出す様なところがある。

私が現在持っているのは車の免許 (と、それに付随する、日本で言うところの原付に乗る資格) だけで、50cc を超えるバイクに乗る事はできない。免許を取る事も勿論できるのだが、その場合結構な時間とお金がかかってしまうらしい (数週間と 1000 ユーロ程度)。自動車の運転免許を取得してから5年以上経っていれば、実務試験だけでよく、費用も 250 ユーロ程度らしい。

ここまでしてオートバイに乗りたいかと問われれば、答えは否だろう。同僚から話を聞いているうちに、「折りたたみ自転車を使って、週末色々なところに (地下鉄を併用しながら) 行くのも良いなぁ」という気持ちにすらなってしまった。

車やオートバイから離れてそろそろ2年ぐらいになるのだが、別段恋しいとも思わない (オートバイを乗り始めたら楽しいかも知れない、と感じる程度だろうか)。そういう意味では公共交通機関の発達しているウィーンに越してきたというのは、私にとって悪く無い選択だったのだろう。

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2011 年 2 月 13 日 | カテゴリー: ひとりごと

と日本でエンジニアしていた頃 (そして今でも) 意識する様にしていたのだけれど、それは L10N にも勿論当てはまる。素晴らしすぎる例を見つけてしまったので書いておく。

SETI@home というと、知っている人は結構知っているボランティアプロジェクト (といっても実際にボランティアするのは人間ではなくてコンピューター) なのだけれど、私が職場にいる間は自宅のパソコンを使っていないからという理由で導入してみた。

自動的に日本語が選択される (恐らく OS から情報を取得しているのだろう) のは良いのだけれど..。

 - 文字が切れている

特に Windows で動くソフトウェアでは良くあることです (それとも単に数が多いだけなのか?)。状況によっては使われているフォントが変わってしまうので、L10N なんてされていない英語ソフトを動かしているだけでもダイアログの文字が切れたりします。

どういう L10N ツールを使っているのだろうか? 想像するに文字列を単に (GUI を見る事無く) 翻訳したのでは無いだろうか。それにしても、メインの画面でボタン内部の文字列が切れているというのはなぁ..。テストしようよ..。

 - メニューが文字化け

Mac OS X のメニューバーに表示される BONIC の項目が文字化けしています。アプリケーション側のメニューは普通に日本語で表示されていた (はず) なので、やっぱりテストしなかったんでしょう。

当たり前だけれど、文字化けしてしまうとユーザーは手も足も出なくなります (メニューを選択する事はできるけれど、例えば表示されるメッセージが全く意味を持たない状況でアプリケーションを使用したいと思う人は少ないでしょう)。

結局 BONIC のクライアントを使い始めて1時間しないうちに英語に切り替えました。L10N により、潜在的なソフトウェアの市場は拡大されるのでしょうが、下手な地域化は逆に害を及ぼすこともあるという良い例でした。そこまで文字列も多く無いからかもしれませんが、翻訳そのものに違和感を感じた記憶はありませんでした (あまり使っていないから分からないけれど)。

L10N という仕事は翻訳とは少し違うということなのでしょう。短い文字列 (= 使われる状況を知らないと文字列の翻訳が正しくできない) の翻訳をする為に開発者と話さなければならない事もありますし、文字列が連結されたり、(日本語ではあまり関係ないけれど) 文字列の最初にある小文字を大文字に変換して、他の文字列と連結するといった処理も往々にしてあります。(当たり前でしょうが) 翻訳者と技術者という両方の側面があるのだと言う事なのでしょう。そこには勿論テストも含まれると私自身は考えています。

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2011 年 1 月 1 日 | カテゴリー: TED

早いもので、私が TED の翻訳プロジェクトに関わり始めてからもう1年以上になる。振り返ってみると、翻訳そのものよりも srt2CSV や CSV2srt というスクリプトやサービスの作成といった、「翻訳やレビュー支援」を行う場面でよりプロジェクトに貢献しているような気がする (そしてそれはそれで良いことだと考えている)。

私の翻訳スタイルだが、dotSUB から動画データと英語の字幕ファイルを直接ダウンロードして、ローカルマシン (MacBook Pro) にて字幕ファイルのテキストを編集。必要に応じてテキストを保存し、動画ファイルを開いて字幕がどのように表示されるかの確認を行う、という方法を取っている。その方法だが、VLC というソフトウェアを使用すれば特に難しい設定など行うことなく字幕付きで動画を視る事ができる (デフォルトでは動画ファイルである flv ファイルと、字幕ファイルの srt ファイルの名前を同じものにしなければならない。例えば TED.flv と TED.srt という具合である)。

私は毎日地下鉄に乗って出勤しているのだが、「iPad を使ってこの時間を翻訳作業に充てられないだろうか」とたまに考えていた。実際やってみると思った以上に簡単にできてしまったので、ここにその内容を残しておく。

必要なものは、

 - iPad (iPhone でも一応できる – 実際快適に作業できるかは分からないけれど)
 - DropBox のアカウント
 - VLC がインストールされた Mac OS X 環境
 - インターネット接続環境

以下の手順に従う (便宜上ダウンロードしたファイルの名前は TED.flv と TED.srt ということにしておく) :

 (1) まずは iTunes Store にて PlainText – DropBox というアプリ (無料) をダウンロード。
 (2) iPad (または iPhone) にインストールされた PlainText – DropBox アプリから DropBox のアカウントへ接続
 (3) DropBox の共有フォルダーにて PlainText アプリが参照する場所を指定する (デフォルトでは PlainText という名前のフォルダー)
 (4) そのフォルダーに対して、MacBook Pro (というか、Mac OS X) にて
  (4-1) TED.flv ファイルならびに TED.srt ファイルをフォルダー内にコピー
  (4-2) ターミナルを立ち上げて、上のフォルダー (ディレクトリ) へ移動後、以下のコマンドを入力 :

mv TED.srt TED.txt
ln -s TED.txt TED.srt

  上のコマンドの意味は、「TED.srt というファイルを TED.txt に名前変更して、そのファイルに TED.srt という名前でもアクセスできる様にする」というもの1

これで TED.txt というテキストファイルを PlainText アプリから編集し、編集されるたびにその情報が DropBox 上で同期され、Mac OS X からも新しい字幕を参照する事ができる様になる。勿論同期を行う為には iPad と Mac OS X の両方がインターネットに接続している必要がある (一応書いておくと同時に接続する必要は無い)。

この操作をしておくことで、例えば

 (1) 朝出かける前に、最新の字幕ファイルを iPad 側に転送
 (2) 通勤中 (オフラインになっている状態で) 字幕の翻訳作業を iPad (または iPhone) で行う
 (3) (インターネット接続環境のある) 自宅に帰ってくると、iPad にある新しい字幕ファイルを DropBox 側に同期し、その情報がそのまま Mac OS X 側でも更新される
 (4) 自宅では Mac OS X にあるテキストエディター (例えば Emacs) で翻訳作業を続行。必要に応じて字幕が入った動画で翻訳を確認

ことをシームレスに行う事ができる。

  1. Mac OS X とくどい程書いてある通り、このような操作は Windows で行う事ができない (そもそも Windows のファイルシステムにそのような概念が存在しないから)。(4) の操作は、PlainText アプリが .txt という拡張子を持ったファイルしか編集できないという仕様に対応するためで、例えば Textforce (有償) というアプリでは編集対象のファイル拡張子を設定する事ができるらしい (私は未確認。情報があれば教えて下さい)。Windows ユーザーでも PlainText の代わりに TextForce を使えば問題ないのかも知れない []
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2010 年 12 月 10 日 | カテゴリー: 生活

前回の沖縄行きで結構な数の本を購入し、自分宛に送ったのだがそれまでに現在自室にある本をある程度読んでおきたいと考える様になった。人間 (と言うか私の個人的な?) 心理だと思うのだが、「読む本が大量に来る」と分かってしまうと、今まで「時間をかけてゆっくり読もう」と思っていた本も「さっさと読んで次の波に備えたい」と思えてしまうから不思議だ。

そんな訳でここ2週間程読書量が増えている気がする。それまでは Kindle で読む時間の方が長かったのだが、ここにきて日本語で書かれた (紙の) 本ばかりを読んでいる。しかし自室にいながら読書しても、半径数メートル以内には MacBook Pro が控えている。「ちょっと気になったから..」といってブラウザを開けると、何故か Twitter を TL を眺めてたりする。これは危険だ。

夏場であれば、外に出て読書することもできたのだろうが、最近のウィーンは雪が数十センチ積もる程の寒さ。外どころか、暖房が入っていない部屋の外にすら出たくない。そこで良いかも知れないと考えたのが足湯。最近友人からバケツをもらったので、この中にお湯を溜めて足を入れてみると、なかなか良い感じだ。

これだと数十分程度は身体の場所が固定されるし、その間読書に集中することができる。足湯している間、iPad や iPhone にも手が届かない様にしている (どのみち私に電話をしようとする人は数少ないので、実害は無いだろうと考えている。っていうか、電話よりも SMS にしてくれ..)。これで読書だけに集中することができる。

身体を暖めながら読書をするというのは非常に良いものだと思うのだが、さすがにサウナに入りながら読書はできない (やりたくない)。足湯はバケツさえあれば手軽にできるし、良い事尽くめだと思う。これからも (少なくとも次の春が訪れるまで) 続けていこうと考えている。

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